白川文字学の学説について
2012.11.24提出
…載書説 「含」の場合
白川氏は、「卜文・金文では口耳の口とみるべきものはほとんどない」と述べている(「字統」「口」の項)。
の形のものはほぼ全て載書だという。しかし、本当に口と解釈できる字はないのだろうか。
「含」という字は卜文・金文には無いようだが、「字統」の「含」の項には、「載書のうえにふた(今)を置いて、呪能を内側に含ませること」とあり、載書説の字である。しかし、同項に「死者の口に
という玉を含ませた」ともある。ならば含は「霊の脱出を防ぐために、死者の口にふたとして玉を含ませること」という解釈も可能ではないか。
もとより、字統の記述の陰には、膨大な証拠資料があることだろう。どこかにより詳しい説明を遺しておられるかもしれないが、見つけられずにいる。字統などに書かれた説を鵜呑みにするのではなく、納得できる根拠を見つけて理解したいと思っているのだが、そのためには、白川氏の何十分の一かの努力(それは凡人にとってはとてつもない労苦)が必要なのであろう。
系列字:古右可召名各告害兄品巖 など
追記)後日調べたところ、同じ白川氏の「常用字解」(平凡社)では、同字について「今と口とを組み合わせた形。(中略)含は人が死亡したとき、その死気が抜け出ることを防ぐために玉を口に含ませて蓋をすること」とあり、さらに「字通」(同)では「含は含玉の意であるから、今を口に加えて、死気を遮閉する意とみてよい」となっていることを知った。私の想像も外れてはいなかったようだが、同一著者の字書でも解釈が一定しないこともあるので注意が必要である。
(阜)…神梯説 「隣」の場合
現在では同じ
の形だが、偏になる場合と旁になる場合では、由来も意味も違う。こざとへんは白川説では神梯で、おおざとは邑が起源である。ところが、「隣」という字には「鄰」という異体字がある。鄰は説文でも正字とされ、現代中国語(簡体字)でも「
」を使う。ではどちらが本来の字なのか。
ここで字統を引いてみると、答えはすぐわかる。隣が正字で、神梯の前で
の儀礼を行う聖地をいう。
とは人牲を用いて鬼火を発すること、というすさまじいものだが、ではなぜ鄰の字が通用するようになったか。隣の祭祀の場を司る職が隣と呼ばれ、それが行政単位の名に転用されて、説文にある「五家為一鄰」の隣里となった。こうなると邑を表すおおざとのほうがふさわしくなり、鄰が使われるようになったという。見事に筋が通っている。
系列字:限降陛陰隆階隊陽隔隠際 など
…祭肉(肉)説 「師」の場合
これがまた意外な説であった。生の祭肉を軍行に携えるという習俗自体が意表をついている。腐らないかと、余計な心配をしてしまう。また、卜文の字形も肉には見えず、眼鏡のようだ。「祭」などの「
」とも違う。軍旅に関する字だから、この形は肉を表しているに違いない、と見抜いた眼力は恐ろしいほどだ。
は曲刀で、肉を切り分けるためという。
系列字:追官遣歸 など (帥は非系列字)
画像引用元
甲骨文 漢字古今字資料庫(台湾・中央研究院ウェブサイト)
JIS規格外漢字(明朝体) グリフウィキ(ウェブサイト)